FC2ブログ

「ヒロシマ」と「千羽鶴幻想」

8月29日は旅行中で、おまけに午後11時までお姉ちゃん達と温泉三昧をしていたので、殆ど鑑賞できなかった戦後60周年記念作品「ヒロシマ」。
私が見たのは、ラスト間近まさに原爆がヒロシマに投下される直前の映像からでした。全般を見てないので詳しい感想は書けませんが、語り部として学生にその体験を語る西田敏行の言葉がこの作品の【骨】なのかな、と思いつつ、しかしそれを語ってしまうのはどうだろうかとの思いもありました。

この作品を見た観衆が【自分の言葉】でそう言うのなら、もっと良いだろうなと思ってしまったので。

「千羽鶴幻想」
もう何年前…、いや十数年前の作品か忘れてしまいましたが、やはり「ヒロシマ」をテーマにした終戦記念ドラマを見ました。この話の主役は2人の子供たち。一人は現代に生きる母子家庭の子。もう一人は戦中、出生した父の帰りを母と待つ国民学校の少年。そう、もうこの世の人ではありません。どちらも寂しさを抱えていたから、現代に生きる少年の目にはこの戦中の少年の姿が見えたのでしょう。この少年が亡くなったのは、原爆の投下によるものです。現代に生きる少年には遠い世界の、まるで自分に関係のない話。
名前を思い出せないので、仮に亡霊の少年の名を「ツヨシ」、現代の少年の名を「ケンンチ」とでもしておきましょう。
「ツヨシ」は被爆した時に、お母さんから貰った大事な物を失くしてしまい、それが無念となって未だに昇天出来ずに現世を彷徨っている霊です。それを見つければ、自分でも行くべきところへ行ける事は判っています。
仕事が忙しくなかなか母に構ってもらえなくてケンカしてしまった「ケンイチ」には、「ツヨシ」の大事な物が自分にとっても大事な物のような気がして、一緒に探す事にします。

…例によって、かなりうろ覚えなのですが^_^;

細かい所は忘れてしまっているんですが、所々のエピソードははっきり覚えています。「ツヨシ」の住んでいた家に行こうと電車に乗るシーン。お金がないからと言う「ケンイチ」に自慢げに旧紙幣を取り出す「ツヨシ」。これで電車に乗って行こう、と顔を輝かせています。そのお金を預かり、駅員に渡す「ケンイチ」。駅員はこんな古いお金じゃ電車には乗れないよ、と返します。それを無言で「ツヨシ」に返す「ケンイチ」。落胆した「ツヨシ」の表情が忘れられません。時代の流れのようなものが凝縮されていて…。

一方母親の方は、体を悪くしてもう長い事病院暮らし。
ずっと、あの夏の日の事が忘れられません。あの朝、小さな畑に実ったトマトを食べようとした「ツヨシ」を、学校に遅れるから帰ってきてから食べなさいと、送り出したあの朝。
母親も被爆したのはしたのですが、爆心地から外れていた為一命を取りとめ、爆心地に近かった学校に向かった「ツヨシ」は爆死したのでした。
この母親には、ずっとこの事が悔いになって…
あの時、食べたいと言った時に食べさせていれば、少しくらい学校に行くのが遅くなっても構わなかったのに、それなのに…。もしかしたら、トマトを食べていれば、死なずに済んだかも知れないと。いえ、死んだとは頭で理解していても、気持ちが納得していない母親の病床の枕元には、いつ「ツヨシ」が帰ってきても良いように、いつもトマトを置いてあるのです。

「ケンイチ」は「ツヨシ」と一緒に大事な物を探す間、この広島の町がたどった歴史にも触れてゆきます。子供の目線での描写です。
途中、やはり戦後生まれの駆け出し女性新聞記者がこの子たちの面倒を見ていたような気がしますが、これも定かではありません。
物語のクライマックス。
「ツヨシ」は失くしていた大事な物を見つけ、時を同じくして戦後生き延びてきた「ツヨシ」の母も亡くなります。2人は、死者としてようやく再会出来たのです。それはちょうどあの千羽鶴の慰霊碑の所。2人は一羽の千羽鶴に乗って昇天してゆきます。母の手には「ツヨシ」に会えたら渡そうと思っていたトマト、それを受け取り嬉しそうに笑う「ツヨシ」

「ケンイチ」もちゃんとお母さんと仲直りしようと思い、今まで2人の面倒を見ていた記者(…多分この記者にはケンイチしか見えなかった、最期に昇天してゆく光が見えたかな?)もああこれで良かった、と「ケンイチ」と2人見上げた空から目を転じると…。

あの炎が燃える慰霊碑の前。
石畳から湧くように蠢き、何かを掴もうとする黒い無数の手。
決して、【終って】はいないのだと暗示させるラストでした。

タイトルに「-幻想」と付いている事からもわかる様に、この話は史実に基づいたドキュメンタリー風作品ではなく、一種のファンタジーなのです。
原爆の恐さを追求する事よりも、声高に叫ぶよりも、日々の生活の何気ない心の交流の大切さ、刹那さを感じた作品でした。

そういうささやかな大切な物を奪う、全ての物に対しての問題提起を感じたのです。救われてはいない、無数の黒い手。
戦争を起こした事への、原爆を落とした事への、これだけの犠牲を払ってもなお争いの続く世界への、【この事】が風化しつつある現代への、全ての物に対してと。


…しかし、それにしてもこの「ヒロシマ」。やはり8月6日の放送は60年経った今でも辛いものがあるのでしょう。きちんとその日に放映した方が良いのでは、と思う私はそう言う痛みを知らない人間なんだろうな、と思うのです。

スポンサーサイト



続きを読む

2005年09月01日 近況報告 トラックバック:0 コメント:0

| 気分は日曜日TOP |