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子供とゲーム

昨日は朝の9時から小学校の友愛セールのお手伝いで、ヨーヨー釣りの水風船を、200個近く膨らませていました。11時半の開店に間に合わせようと、力入れてやっていたので、今日は肩と腕と左手の親指・人刺し指が痛いです。

その時一緒に作業をしていたお母さんとお話をしてたのですが、話の内容は子供の友達関係とゲームなどとの共存の話。我が家は上が女の子なのでそこまでゲーム関係での友人関係はないのですが、男の子になるとやはり必須アイテム化しているようです。

その話は姉からも聞いてました。
やっぱりね、ある程度は持たせないと仲間はずれになるからねぇ、と。
TVゲームの面白さは、私自身はしませんが判るつもりです。ただ、それを端から見ていると、TVゲームの創生期ですら何か【恐い】ものを感じて、手を出さずに来た私です。今のように更に進化したTVゲームに、何でも吸収する柔らかい頭を持っている時期に漬かってしまう恐さは、実際に色んな所で弊害を生んでいます。

その一緒にお話をしていたお母さんも、子供の友達が遊びに来て無言でゲームに興じている姿を見ると、どうしても【遊んでいる】とは思えない、何か嫌なものを感じるんですよね、仰る。私もその意見には同感なんです。それならまだ、カードゲームの方が良いよね、と。まぁ、これも色々聞き合わせてみれば、まったく問題がない訳じゃなさそうなんですが、そこまで親が完全無菌な状態を作る訳にもゆかず、また作るべきでもないので、子供たち同士で解決しないといけないのでしょう。

どう折り合わせるか。
ここがポイントなんですね。もし手を出さずに済む物なら、手を出させずに済ませたいと考えている私です。ダンナも同意見で(…いや、むしろ物凄いアナログ人間なので、パチンコすらしない人です^_^;)、この先子供たちがTVゲームを欲しがったとしたら、親VS子供で攻防戦を繰り広げそうな予感がします。

その手のゲームに無縁だった長女も、今 流行のたまごっちを欲しがっています。買おうと思えば、4年生に進級してから月々お小遣いをあげるようにしたので、買えない事はありません。が! 私、ここで釘を刺しました。
今買えば、間違いなく末っ子君のおもちゃになるよ、と。
その一言で、思いとどまっている長女です。末っ子君が5歳になって、もう少しお利口さんになったら買ってもいいよ、との約束で。
ええ、勿論 親は買いません。買うか、買わないかは長女の判断。
後、半年余り。それまで、この【欲しい】気持ちが持続する物であれば、買わせてもいいでしょう。

我が家では、そう言うTVゲーム対策の一環としてパソコンをかなり早い時期から子供たちに使わせています。させるゲームもパズル系の一人で黙々と解くようなゲームだったり、学習ゲームだったり。使う時間も原則として上限1時間、と決めて。

私もパソコンは大好きです。
いつまでも遊んでいたいネットの世界もあります。しかし、子供の為にもちゃんと大人がお手本を見せておかないといけないだろうと思う場面もあります。
TVゲームにしろパソコンにしろ、【遊び】であればそれで生活のリズムを崩すような事はしてはいけないと思います。高学年になれば、夜更かしをする子も出てきます。そんな時、親が遊びで夜更かしをしているのに、子供だけ【親の特権】で早く寝かせようとしても、それで子供が素直に従ってくれるだろうかとも思いますし、またそう言う自分もだんだん後ろめたい気持ちになりそうです。

親と子供の関係では、何が大事か見誤らないよう時に立ち止まり、周りを見回す余裕を失くさないでいようと思います。【親】になって、やっと十年。自分の人生のまだ何分の一かです。その子のその歳の親でいられるのはその中でもたった1年…、いや その瞬間だけかも知れません。判っているのに、ついつい自分の我侭を優先させる事の多い自分を反省しつつ、子供との時間を重ねて行きたいと思います。

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2005年09月11日 ひとりごと トラックバック:0 コメント:0

夢は枯野を…

はは、私 やっぱり根っからの日記書きでもあるかもしれません。
ちょっとした、他の方から見ればなんて事のないネタでも、私が書きたい! と思ったら、書かずにいられない。
二次創作とはまだ別次元の話ですね。

多少、関連はあるかもですが。

記事タイトルの「夢は枯野を…」、これ 松尾芭蕉の辞世の句の一部分です。
昨夜の「世界・不思議発見!」のテーマが松尾芭蕉の奥の細道。その中で、俳句の極意を伝える芭蕉の言葉として

「俳諧は事実に非ず。上手に嘘をつく事なり」

とありまして、おお、なかなか面白い言葉だと思いました。
つまり俳句も創作の世界、フィクション性を含むものだと。確かにちょっと現代風に考えてみれば、俳句が事実を伝えるものであれば、たった17文字の言葉で表すものはそれこそ記事のメモ書きのような物になるでしょう。それでは、人の感性に訴えるような物にはならない。俳句を俳句たらしめる為にだからこそ、たった一文字の使い方にも推敲を重ねる、と言うのがよく判る気がするのです。その一文字で、表す世界がガラっと変わるからです。
私のような、小説の中の一文字・一言葉をあれこれ差し替えてみてもそう変わらないような文しか書けない素人物書きでは、【推敲】と言う作業の出来るレベルはまだまだ先のように思います。

そして、まさしくその通り! と思った芭蕉の一言。

「全てを書かぬから、全てを表す」

細かな描写、この場合俳句ですからまず書きようがないのですが、ならば【自分】がその対象に対して【感じた事・思ったこと・感じた事】を17文字に凝縮して表現する。それは事実ではないにしても。

「荒波や 佐渡によこたう 天の川」

この句は、事実と照らし合わせると有り得ない情景だそうです。
芭蕉がこの佐渡を遠景に望む場所に来た時、季節的に佐渡島はもやがかかり、実際には見えないのです。また、荒波とは天候が悪い事を表し、本来なら天の川も見えないはず。では、この句で芭蕉が謳ったのは佐渡を望むその場所の美しさではなく、見晴るかす【宇宙の広大さ】。
それを、読み手の想像力に訴えた訳です。想像力は一人一人違う物。この句を読んで頭の中に広がる情景は、何万・何十万の言葉を書き連ねても表しきれないでしょう。それこそ、17文字の中の無限。

この感覚は、私も拙い文章を書きながら良く思っていました。
想像力を掻き立てる表現と、事細かに精緻に描写すると言う事は、時として相反する事が在ると。詳しく書く事で、情景が限定される場合があると感じていたのです。

私は古いタイプの物書きのようで、文章の言葉運びに基本として五・七調が根付いているようです。今では、私特有の【リズム感】で文章を運ぶせいか、殺風景なほど言葉を削り込んでしまいます。やはり【小説】としてみた場合、破調なんだろうなと思うのです。

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2005年09月11日 二次創作 トラックバック:0 コメント:0

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